おはなしりぼん2001秋号
 
 
マイ・ヘルパーとは・・・
 「マイ・ヘルパー」とは、まさに読んで字のごとく、自分専用のヘルパーのことです。しかし、団体に所属している介助者と専属の関係にある、ということではありません。自らが、条件を明示した求人広告を出し、応募があった人の中から選考する、また、採用した人に対しては雇用保険も含めてきちんとした雇用契約を結ぶというものです。
 それでは、なぜ私が「マイ・ヘルパー」という結論に至ったのか?少しふりかえってみましょう。
私は、手足に障害があります。大学二年の頃、「早く世の中に出たい!」「いろんな事して遊びたい!!」という思いが強くなり大学を中退し、友人四人と共同生活を始めました。このことをきっかけとして、数年後には八王子で一人暮らしをするようになりました。しかし、これらの生活は順風満帆というわけにはいきませんでした。時には、「人の役にたっているのだ!!」という自己満足だけのためにボランティアに参加している人(全てのボランティアの方がそうではないのですが)との窮屈な関係を経験したり、人間不信に陥るようなトラブルもありました。
  そんなこんなで求人誌に広告を出してみたところ、三十人の応募があり、面接と介助用具の操作で選考しました。中には、面接前から、賃金の条件を提示したり、家族の協力を求めたりする人もいました。
その中から、「マイヘルパー」を選考した理由とは・・・


1.自分と同じようなアバウトな性格である。
2.リフトの使い方がうまい。(勘が良い)
3.言語障害のある自分の言葉を聞く姿勢を持っている。

という点に絞られます。特に三については、話す機会を奪われたり、中途半端な理解をされたりと言語障害者が日々直面している切実な問題なので重視しました。

採用して、半年ほどになりますが、介護技術も身につき、また、生活感も自分に近いものがあって、とてもリラックスした日常を送っています。

マイ・ヘルパーになってみて
箭子さんのヘルパー募集の広告を目にしたのは、ある若者向けの求人雑誌でした。ちょうど、福祉関係と、趣味である水泳に関係する仕事の両面で求職中でしたので応募してみました。そして、面接と福祉機器の体験・操作という選抜方法を経て採用されました。採用理由は後ほど箭子さんから聞きました。しかし、福祉関係に興味があるとはいえ、実際に障害者と接したことはありませんでした。
 この仕事を始める前までは、障害者を美化して捉えているようなところがありましたが、実際にヘルパーになり、多くの方々と接するうちに「健常・障害の区別などなく、皆同じなのだ」ということがわかり少し肩の力が抜けました。

 仕事の内容は、食事・トイレ・入浴・外出等の日常生活介助、秘書業務、そして「通訳」。実際不安だったのは言葉の理解です。言語障害のある箭子さんの言葉を理解できるか不安でしたが、一週間に四〜五日、一日十時間以上接し、ほとんどわかるようになり「通訳」業務もこなせるようになりました。
 電動車椅子に足をひかれたり、二人してスケジュールを忘れたりと失敗もありますが、箭子さんに同行して出席する会議から学ぶ事も多く、半年経った今、とてもやりがいを感じています。


存在にありがとう
   ―五人の子供たちへー
 どれくらい時間がたっているのだろう。気がつくと家の中に赤ちゃんがいなくなっている。子供達は、あたりまえだがどんどん大きくなっているのだ。ふと気がつくとどうやってすごしてきたのか、まったく覚えていない。毎日々過すのにやっとで、ゆとりがなかったのだ。なんだか申し訳ない気もする…子供達と過す時間も、見えている姿もまるで早送りされているビデオテープのようで、ゆっくりふり返ってみつめてあげる余裕がなかった。夢中でがんばってきたような気がするけれど子供達は、いろいろしんどかったろうなと思う。さみしい想いや、ものたりない心のときもあったんだろうなと思う。でもきっと母が与えきれない分、同胞というかけがえのない仲間にめぐまれて、きっとたくさんの何かを分けあっているんだろうね。そう思うことで自分をなぐさめているのは親のエゴかもしれないのだけど…

 赤ちゃん達はどんどん子供になって、その体の中に大人の芽も育てていて心の目は自分のいるべき場所の中で母も含めたくさんの人や事柄をうけとめている。子育てなんてできてない私は、五人のさずかり物にそれはそれは沢山の大切な贈り物をもらってきた。小さな社会の中に大きな世界を持つ子供達に教えられることばかりだ。それはきっと、これからもずっと続くだろうし、続いてほしいと思う。時期的には、もうすぐ手がはなれていくころなのだろうけど、私は今からが子育てなのかな、親育てなのかなと思っている。子供達は、小さいうちはハチャメチャでも、愛し愛されぐんぐん育つ。一人前に自分のことができてきてからが、親としての本領発揮なのかなと思うのだ。


 赤ん坊だった末娘が兄達を「にいにい」と呼び、私を「ママ」と呼ぶ。兄達は順ぐりに私を「お母さん」と呼ぶようになっている。上の子達は、手がかからなくなったぶん、ある意味精神的なコミュニケーションは密度が濃くなっている。


 これからは時々たちどまって、ふりかえって、ゆっくり息をして、じっくり目を見ひらいていくことが大切にちがいない。


 ひょっとするとこのごろ反省ととまどいのうちにも、こんなことを考えられるわずかなゆとりが生まれているのかもしれない。


 不思議なもので、ゆとりのない子育て期間は、悩んでいるひまもなかった。


 かといって、まだまだ時間に追われどうにもならない我家である。上の子たちの手伝いあり、父親の育児参加あり、でもやることは山ほどでエンドレスだ。それでも子供達に対して悪いとは思うが、イヤだと思わないのは自分でも幸せであるし、親が親なら子も子で、まだ赤ちゃんがふえると思い込んでいる息子達なのである。(笑)たぶん混乱の毎日でも彼らは私達に愛されて、存在してくれることを喜ばれていることを十分感じとってくれているのだろうと私は思っている。だから、まだ赤ちゃんを受けいれる心のスペースがあるのだ。大人達もそんな心のスペースと生命への愛しみがあれば、どこの子供達もきっと幸せになれるのだ。家族という単位のまとまりの中で、人間らしいそんな感性を自然と身につけてくれている子供達に感謝する母なのである。


 これからも笑っていこう!ごちゃごちゃでも笑っていこう!いっしょに生活していく中で子供達の存在に感謝でいっぱいの毎日である。

男性ヘルパーです!
★趣味
   ・旅行・野山の散策と薬酒造り
   
・ポーツ(今はウォーキング程度)
      ―ホヤホヤのヘルパーとして頑張っています。


第二の人生は、自分が最も興味のあることをすることにこだわりを持ったこと、自らが老いる前に少しでも年配者や身体の不自由な方の介助が出来たらとの思いもあり、六十の手習いでホームヘルパー二級に挑戦し、今年の六月に資格を修得したばかりのホヤホヤです。

七月以降は、「NPO市民ユニットりぼん」の一員として利用者の家事援助、介助を主体に、時には「助け合いワーカーズ」として、庭の除草や換気扇の清掃をしています。利用者さんの「助かったわ」の一言に、ホームヘルパーをして良かった…と喜びを感じている日々ですが、今まで最も嬉しかったことは、利用者さんから私の不得手とする料理のコツを教えてもらったことです。

興味のあることをすることって何て素晴らしいことだろう。

ひだまりの家 納涼祭
 ひだまりの家の八月行事納涼祭が、賑やかに行われました。毎回のプログラムの他、月一度の行事は、お出かけや誕生会、発表会等季節感を重視し計画しています。納涼祭の催しはフラダンス、盆踊り、金魚・ヨーヨーつり、福引きと盛り沢山です。フラダンスの衣装づくり(レイ・腰ミノ)は、六月より少しずつ始め徐々に気分を盛り上げていきました。手つき、腰ふりとダンスの練習を重ねるにつれ、何かミスマッチと気付くとバックが障子と襖ではないですか。そこで椰子の木と実を作って障子を隠し、常夏の楽園ランドで写真撮影もばっちりです。他の壁面は七月に製作した、魚や貝、コンブの海原、上方の壁には、花火のはり絵が一面に打ち上がり、夏真盛りです。

 さて、本番、薄化粧をし、髪にも花飾りをつけてお顔がパッと華やぎ、皆さんとてもキレイ。アロハオエ等ハワイアンに合わせて優雅に踊りました。続いて日本情緒の祭りを童心にかえって遊びました。笑い声の絶えない楽しいひだまりの家です。